日光市のキリスト教会 大沢バイブルチャーチ

牧会エッセイ

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道の書3章11節

大沢バイブルチャーチ 関根辰雄
1961年(昭和36年)ころ尾島教会に転任した私が足尾教会の礼拝を依頼され奉仕した。50年以上も昔のことである。

礼拝後、足尾教会員の神部さんが、先生、この春亡くなった次男の墓標を書いてください。と言うことで、すでに白いペンキで塗られた十字架の墓標が用意されていた。

今は、墓標は全部石屋さんが文字を刻んでくれるので牧師が書くことはないが、当時は木の十字架を作り、牧師が書くことが多かった。

書道の素質のない私は困ったが、どうしても先生お願いしますと言うことで、書くことにしたが、白ペンキの上で普通の墨汁では書けない。
困って黒のエナメルを用意して、書くことにした。

墓標だから、書くことばは、「我は復活なり命なり」とか「我らの国籍は天にあり」とか、そんな聖書のことばが普通であると思っていたら、「労する者重荷を負う者は我に来たれ」と書いて欲しいと言われた。

「あまり墓標に書くには適当なことばで、ないですよ。」と話したが、その聖書のことばについて、こだわる理由を話してくれた。

この春、生後8ヶ月で病弱のまま、召された次男のことで、悲しみに苦しんでいたときに、救いに導いてくださった小沢薫先生を訪れました。その時に小沢牧師が、マタイ福音11章を開き、このみことばで励ましてくださりお祈りしてくださいました。
その時から、このことばを、この子の墓標に書くことを示されました。

新米牧師の私は、あまり納得しなかったが、言われるままに、白ペンキの十字架の上に、黒のエナメルで、なぞり、なぞり、辿々しくやっと書いた。出来映えは、自分でも納得いかない文字になった。

その墓標が立ったのは足尾町と桐生市の中間にある山間の小高い神部家の墓地で、誰も通る人など無いような墓地であった。

それから何十年が過ぎその墓地が有名な三浦綾子女史と星野富弘氏の対談集「銀色のあしあと」に掲載された。

村の人もほとんど通らない、その十字架の墓地の脇が、細い坂道になっていた。
その墓地の上の畠の持ち主の高校生(星野富弘さん)が、豚の肥やしをかごで背負って、その墓地の脇をとおり、びっくりしたそうだ。

キリスト教会など無い村である。
たまたま豚の肥やしをかごで背負っていたから「労する者重荷を負う者」という言葉がとても印象的だったそうだ。
何年か後、クリスチャンになった星野富弘さんは、聖書を読みつつ、マタイ11章にきたとき、(あ!これはあのときの墓標のことば?)と驚いたそうだ。
三浦綾子女史は「銀色のあしあと」という本の中に、この十字架の写真を掲載し、「神様のシナリオは見事です。神様がチャンと布石を打っておいたのよ。」と語っている。