日光市のキリスト教会 大沢バイブルチャーチ

葬儀について

母の葬儀

1981年(昭和56年)10月母が召された。
危篤の報を受けて、自宅で寝ていた母の元へ私も駆けつけていた。
一人の人の最期は誰にとっても厳粛である。まして、肉親の死は大きな心の痛手だ。

長兄の私が牧師になったので、弟が父母の面倒を見ていてくれた。
召されるまでは葬儀のことは中々話に出ないが、お医者さんが「ご臨終です」と告げられたときから、葬儀をどうしようと言うことになった。

母は、私が尾島教会にいる頃、特別にイエス様に示されて母を訪ねたことがある。
「母ちゃん、俺は、イエス様を信じてクリスチャンになった。そして、いま牧師をさせて頂いている。
母ちゃんもイエス様を信じて」と一生懸命に話した。
田舎で育った明治生まれの母は
「わしは、ろくに字も読めないし、キリストさんの話は難しい。」と自分の心中を話してくれた。
何時間もそんなことをやりとりしていたが、しばらくしてから母が、号泣しながら、
「辰雄、わしもイエス様を信じるよ。どうお祈りしたらいいんだい。」
と一緒に、私とお祈りをした。

大きな感動を心一杯に感謝しながら、尾島教会に帰った事を忘れることができない。
その母が天に召された。

(私は、心中深く、母の葬儀はキリスト教で行う)と心に決めていた。
私は世話になってる弟に「母ちゃんの葬儀はキリスト教式でやるから任せてくれ」と頼んだ。
弟はすぐにOKしてくれたが、集まってきた、隣組の方々や親戚は、少々戸惑っていた。

村でキリスト教の葬儀は誰も見たことも無く方法も全く解らない。
関根家の墓地は近くのお寺に、墓石を新しくして、父が数年前に建ててある。
今のように全部取りしきってくれる葬儀社も無かった。

葬儀は急な事で、自分だけ納得していても、大勢の人が関わって行われる。

とりあえず、葬儀の日を決めて、司式を前橋の市川惣蔵先生にお願いして、部落の公民館を借りて、葬儀をすることにした。

当時、田舎での葬儀は、近隣の人々親戚家族にとって大事な出来事であり、お付き合いでもある。
「村八分にされる」という言葉がある。
真意のほどは定かで無いが、ある説によれば「残された二分は、火事と葬儀で、他のことはお付き合いをしないが、火事と葬儀だけは何があったとしても手伝う」と言うことだと教えられたことがある。

田舎ではそれほど葬儀は大事に扱われているのだ。
だから、離れていたとしても長兄の私が、葬儀を弟に丸投げしたら、跡取り息子だったくせに、親の葬儀もしない?責任の無いやつだ。それに弟に喪主を任せて、その上、キリストか、何か知らないが、線香一本あげなかったそうだ?と言われると思った。
「だからキリストはだめだ」というところまでいっていってしまう。
そうなると家族伝道は行き詰まる。関根家の福音の糸口が閉ざされると思った。

「長兄ですから私が喪主をさせて頂きます。キリスト教の牧師をしてますので葬儀はキリスト教式で行いますのでよろしくお願いします」と母の訃報を聞いてお集まりくださった、家族親戚隣組の方々に宣言した。

関根家のキリスト教の葬儀第一号が始まった。

隣組の人が「花輪は?お清めのお酒は?お焼香は?看板はどう書くの?」等々、一々細かく説明する時間も余裕も無かった。とにかく葬儀は忙しい。
万事イエス様に任せて、葬儀が始まった。丸い造花の花輪が親戚や弟の会社等から届いた。
お清めの塩やお酒が無いので、不愉快の人もいるというので、隣組の人が、気を利かして(?)用意した。
とにかく、村で初めてのキリスト教の葬儀が行われ、生まれて初めて、キリスト教の葬儀に大勢の方々が集まってくださった。

以来関根家の葬儀は、キリスト教式で行われ、父の葬儀、弟の葬儀、義妹の葬儀等々葬儀と結婚式はキリスト教で行うと言う事に定着した。

十数年後義妹の葬儀の時は、最近の葬儀場で、私の娘がオルガンを長男一夫が司式と説教を音楽家の次男が賛美をして、集まった人々は、大きな感動を覚えて、「辰雄さんキリストの葬儀はいいね。俺感動したよ。良かったね」と話してくれた。
大勢の兄弟たち家族は、私が老人の仲間に入ったので、私でなく、「私の葬儀は一夫ちゃん(長兄)に頼んであるよ」と言われている。

原稿2019年9月17日
関根辰雄