天を見上げながら生きる

2020.11.22 週報 No.2020-48

今週のみことば

私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。
詩篇90章17節

私達は今日、先に天に召された方々のお写真を持ち、あるいは目に見えるお写真は無くても目に見えない思い出を携えて集いました。
召天者記念礼拝を毎年11月に行っておりますが、それは、主に3つの理由で持つようにしています。

1)近親者であった故人を偲び、感謝の思いを大切にする。
その方々が主の安らぎの中にあることを知る。私達の愛する者が、そこで安らぎを得ているという事を知るならば、私達の心は随分と軽くなり、また力強く生きる力が出てくるのではないでしょうか。

2)近しい愛する者が、私たちに語ってきたこと、今もなお語っていることは何か。その事を思い起こし、そしてまた自らの生き様をも考える時とする。

3)そしてだれにも訪れる自分の「死」について、備えるため。
あの人が?この人が?でなく「死」とは必ず誰にでもやってくるものです。私達はその為の備えを、しっかりとしていくことが大切ではないでしょうか。

<今日の礼拝説教>詩篇90篇より 1.「人の子よ帰れ・」の声を聞く時がくる。90:1-11節
死を忘れないで・はるか彼方のことではない。5-6節には「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。
朝はきれいに咲いていた花も、夕には枯れます。人の一生もそのようなものだと詩人は歌います。

2.「自分の日を正しく数えること」90:12節
死とは他人事として、とらえる習慣が身についてます。死とは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではありません。
死が他人事である限り、私たちは死について考えようとしない。ある時、自分の死ということについて考えよう。誰でも死ぬ。死ぬからこそ「現在をどう生きるか」を求めるのです。

3.「毎日を確かなものに」90:13-17節
主にあって無駄でない人生を・・・聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」と。
ロマ8:32節「ご自分の御子をさえ」惜しまずに死に渡された方が・すべてのものを、恵んでくださる。