わたしの霊によって(関根牧師)

2022.11.20 週報 No.2022-48
一人の人が、何らかの関わりの中に、神の言葉である聖書にふれ、イエスキリスト様の十字架の恵みを知り、それを「私の罪からの救いのためだったと信じ聖書の神を「天のお父様」とお呼びする特権を知って「私の神私の救い主」と信じて、人世を歩み出す素晴らしさ。
その素晴らしい人生の背景には、それぞれ様々な出来事があると思う。

1956年4月私(関根辰雄)が献身、牧師になるための聖書学院、福島県須賀川市にあった学校へ前橋市に家族を置いて入学した。その年の12月9日三男弘興は誕生した。
母、芳江は乳飲み子を抱え3人の子供を守りながら働いた。
今では想像もつかない大変な苦境のなかの子育てだった。
祈りの日々の中に、日ごとの糧を!と言う時期であった。
三男の弘興が1982年春、聖契神学校を卒業。牧師になった。小田原市で宣教師が始めた開拓教会を引き継いだ。
開拓教会の働きをしながら、ライフラインというテレビ伝道の働きにも長年関わっている。
1980年代今市教会時代、同級生であった平塚修久兄と始めた「高校生会」は、まさにリバイバル的な集会となり、毎週、土曜日には沢山の高校生が集まり、入信救われ、受洗するものが続出した。
これは神様が下さった大きな恵みの経験であったと思う。

だが、開拓教会の牧師の苦労をも身をもって味わった。
私は毎年のように開拓当初の城山教会に奉仕させて戴いた。やっと数名の礼拝。
安アパートに住みながら、少数の礼拝を守っていた時期もあった。
以来、40年が過ぎようとしている。まさに苦節40年。
数名の礼拝から、教会も着々と成長し、礼拝に大勢集まるようになった。
20年ほど前に立派な教会堂が建立され、その二階が牧師館になった。
牧師が教会堂内の牧師館に住める喜びを満喫しながら、「教会に住めるっていいね!」と喜んでいた。
宗教法人格を献堂と同時に取得した。
数年前に、豊村副牧師を迎え、牧会の働きを続けている。
過ぎてみれば、まさに万事感謝である。